沖縄県の民生委員・児童委員の概要

沖縄県における民生委員・児童委員制度の沿革

沖縄県において、民生委員制度の前身である方面委員制度が設置されたのは昭和2年10月25日で、翌昭和3年1月31日に12名の方面委員が設置されました。
その後、昭和20年の太平洋戦争の終結後はアメリカ合衆国の統治下におかれ、戦後27年間本土との施政権が分離されたため、民生委員法の適用がありませんでした。
沖縄県社会福祉協議会(以下 沖社協)では、1953年以降、市町村社協の結成促進とその育成に当たってきましたが、その間社協活動の中心となる推進体の必要性を痛感し、1957年、沖縄本島に本土の民生委員にかわる50人の福祉委員を会長委嘱で設置しました。
沖社協としては、この福祉委員を本土と同様に民生委員として行政主席の委嘱にする方針で当時の米国民政府に何度か要請しましたが、米国民政府の考えは、民生委員はもともとボランティアであり、ボランティアは自発性こそが大事であって、行政主席の権威ある委嘱などとんでもないというのでした。
その後、翌年には、宮古、八重山群島社協が統合また1959年には低所得者福祉対策として福祉資金貸付事業がはじまったため、増員の必要に迫られ、その年、委員定数を全琉で150人に増員しました。
この福祉委員制度は、本土の民生委員制度とは異なり、独特な制度として成長しましたが、地域福祉活動や福祉資金、母子福祉資金の貸付事業の第一線にあって、その果たした役割は、地味ながらも高く評価されています。
なお、1968年には世帯更生資金の運営に備えて、委員定数を300人に増やしましたが、民生委員制度の施行を前に1971年6月、13年にわたる制度の歴史をとじることとなりました。
そして、同年12月1日に行政主席により委嘱された民生委員(500人)にその業務を引き継がれたのです。
このような経緯もあって、その後も民生委員とは密接な連携を保つこととなり、1972年2月に沖縄県民生委員児童委員連合会が発足し、これを記念して灘尾全社協会長、高橋全国民児協会長をはじめ、多くの各県民生委員代表を迎えて那覇市の新報社屋で小規模ながら全国民生委員大会が沖縄県で開かれました。
その後社会経済情勢の変動の下、急速な人口の高齢化や核家族化による家庭機能の低下、生活意識の変容等により、年々複雑多様化する福祉需要に対応し、国民の福祉向上を図るためには、社会福祉に関する公的施策とあいまって、地域の実情に応じた創意と工夫の下に展開される地域福祉活動を一層充実強化することが求められ、民生委員児童委員の果たすべき役割は一層増大しています。

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